草にすわる

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八木重吉という詩人の「草にすわる」という詩をご存知ですか。最近は小学生の教科書にも載っているそうです。

わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

草が「わたし」の心を振り返らせた瞬間を、1つの空白だけで表現しているような、鋭さをもつ詩。

空白がある文章が1行目にあるのと2行目にあるのとが掲載されている本によって違うようで、どちらが正しいか議論がなされているようです。空白の場所が違うとまた、「わたし」との向き合う時間の感覚がちょっと違いますね。

わたしの まちがいだった
わたしのまちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる

詩の初稿はまた違うみたいです。自分自身を傾聴している感じが出ているかと思います。
 私のまちがひだった
 私のまちがひだった
 こうして 草にすわれば それが わかる
 この 草は しづかだもの
 (『秋の瞳』「草にすわる」初稿)

この詩が思わぬ本の中で紹介されていました。
 見田宗介 社会学入門 - 人間と社会の未来 岩波新書
です。

見田宗介 社会学入門 - 人間と社会の未来 岩波新書

本も草のうえにと思い、草の模様のクッションの上にのせてみました。

この本の4章「愛の変容/自我の変容」の中で、新聞の読者の短歌の欄の作品を二〇年分を通読し、愛:他者との関係の変容と自我:自身との関係の変容を日本社会の変動とともに論じています。その章の最後の節で、二つの短歌を論じる際にこの詩について言及されていました。
● p.112
ためらわず車椅子ごと母を入れナース楽しむねこじゃらしの原 吉田方子

「愛」ではなく奉仕ではなく献身ではなく親切ではなく感謝ではないような仕方で、三人は自由に結び合っている。「草にすわる」という八木三重吉の短い詩は、草にすわる、という単純なただそれだけの行為が、自己と他者との関係の拮抗性をふしぎに消去してゆく機微を鮮明に記していますが、ねこじゃらしの原に酩酊することで、人と人との間に敷かれているという暗い国境がやすやすと越えられている。けれどもそれは、異質の他者を排除して安心する共同体ではなく、異質の他者が、自由に結合し呼応し共歓する交響体ともいうべきものです。

それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧 渡辺松男

<孤高>ではなく<連帯>ではなく、複数の存在が存在しっている仕方。
「ねこじゃらしの原」の楽しさと「それぞれの空」の潔さとを組み合わせてみた方向に、わたしたちは、少なくとも現在よりもよい社会のあり方を思い描いてゆくことができる。

ここでの交響体と共同体の他にも、社会の存在の形式として、連合体と集列体があげられています(p.18)。

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p.18 社会の存在の4つの形式

共同体は伝統的な家族共同体や氏族共同体、集列体は私的な利害追求にもとづく競合がせめぎあう市場のような社会、連合体は「会社」や「団体」など個々人の自由意志で特定の利害関係や関心の共通性相補性等によって結ばれた社会、交響体は個々人が人格的に呼応し合うという仕方で存立する社会、と分類されています。

こうした社会の変遷を歴史的に俯瞰しつつ、社会はどこへ向かうだろうか?というのが本書のテーマです。

グローバリズムや市場原理主義の進展とともに、共同体と連合体が、集列体へと引き寄せられているようにも思います。
明治以降の近代化は、共同体のメンバー(農家の次男三男)を意図的に連合体へと吸収していったと要約できるでしょう、その変遷がとても分かりやすく説明されています。その変化があまりにも欧米諸国よりはやい(三倍速ぐらい?)ために、連合体は共同体としての性格を強く持っている(た)と思います。

このブログにとって分かりやすい交響体の例として以下のような記述があります。
● p.193
現代の雰囲気のよい職場の「同僚」の関係というようなものも、相互の適切な「距離」の尊重と配慮ということを基底としながら、直接にそれが歓びであるような会話や協同を、時に応じて楽しむことのできる場所である。
さまざまな制度の内部や外部につくられるゼミナールやサークルのような集団も、他者の自由の相互の尊重という形式を優先する原理として基底におきながら、可能な限りの歓ばしい交響性の濃度や淡度を楽しむことのできる空間/時間として経験されることができる。

他者の存在が、歓びの源泉であると同時に苦しみの源泉でもあるという両義性を踏まえ、交響とルールをどう共存させてゆくか。これはさまざまな社会に属するメンバーそれぞれが考えるべきテーマでしょう。

● p.20
近代、現代社会は、<諸連合体・の・集列体>という構造を骨格としつつ、即自的、および対自的な種々の共同体を内包し、またたえずあたらしく形成しつつある。
また仮に、社会の「交響体」的な存立の形が地表をおおう時代が来たり得るとしても、それは単一の交響体ではなく、多様な<諸交響体・の・連合体>として、重層的にのみ構想されうる。

アイデアキャンプは、そんな重層性をつくりだす方法のひとつでありたいと思っています。

みんなで、草にすわる。
それは連合体に交響体を重層する何かのきっかけになるのではないか。そんな風に思っています。

追記:
梅棹忠夫のいう、サムライ化(サムライぜーション)と町人化(チョウニナイゼイション)に言及したこちらのエッセイ
オリンピックと日本も交響体としてのスポーツ文化の可能性を語っているのではないか、と思いました。via 私的自治の時代


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